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「サヨク」メモ

Pol_Pot.jpg
 人と話していて質問され、あやふやになっていた記憶を整理しておく。Wikipediaなどより引用。

重信房子の罪状と刑期は?

 ーハーグ事件について監禁・殺人未遂(共謀共同正犯)などで懲役20年の有罪判決(東京地方裁判2006年2月23日)控訴中

ポルポト派の支配とは?
 ー 1973年、アメリカがベトナムから撤退。それと同時に、ベトコンはカンボジアを去ったが、クメール・ルージュは戦いを続けた。国土に対する管理が維持できず米国支援のロン・ノル政権は崩壊し、1975年4月17日にクメール・ルージュはプノンペンを占領した。 1976年5月13日に、ポル・ポトが民主カンプチアの首相に就任。都市居住者を地方の集団農場へ強制移住。生存者の証言によると、病人・高齢者・妊婦などの弱者に対しても一切配慮はなく、中には点滴を引きながら歩く病人、路上で一人で出産する妊婦など地獄絵図であったという。プノンペンは飢餓と疾病、農村への強制移住によってゴーストシティに変わり、ロン・ノル政権時代の政治家や官僚や知識人が何千人も殺害された。医者や教師なども見つかると殺され、眼鏡をかけている、手がきれい(労働階級ではない)という理由だけで処刑された事例もあった。政権下での死者はイェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトは170万、アムネスティ・インターナショナルは140万、アメリカ国務省は120万と概算した。キュー・サムファンおよびポル・ポトは当事者による過小評価であるが、100万と80万をそれぞれ概算した。1978年後半、ベトナム軍がカンボジアに侵攻、クメール・ルージュ軍は敗走し、ポル・ポトはタイとの国境へ逃れた。1979年1月にベトナムは、粛清を避けてベトナムへ逃れた元クメール・ルージュ構成員から成るヘン・サムリン傀儡政権(カンボジア人民共和国)を成立させた。このことは東部カンボジアでのクメール・ルージュ構成員の広範囲な離脱につながった。離脱者の大部分はもし離脱しなければ告発されるという恐れによって動機づけられた。ポル・ポトは戦闘を続けるために国の西部の小地域を保持した。

超法規的措置の国内での事例?
 ー国内での有名な事例では、クアラルンプールアメリカ大使館占拠事件によって坂東國男などが釈放された事件(三木武夫内閣)と、ダッカ日航機ハイジャック事件にて犯人グループの要求に応じ、福田赳夫首相(当時)が「人命は地球より重い」と述べて、身代金の支払い及び服役中の犯人グループの仲間の引き渡しを決断した件が挙げられる。
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Kitty

Author:Kitty
born in 1974
Medical Officer (MD)
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